戦艦大和 その24

ネコとウソ

2014年09月30日 16:43





         戦艦大和 その24

        ニチモ1/200戦艦大和

          初版 1968年





 小学生のとき、ノートの端に描いては沈めた戦艦大和、
その後も記憶は引き継がれ、50年後の今また戦艦大和は私のなかで疼き、
こうしてノートからプラモデルに変わったが、ひきつづき構築されている。
 なぜ私は戦艦大和を作るのだろうかと考え続けてきたが、
いまここに一つの回答を得た、、、。
 






     「ひとりでは 生きられないのも 芸のうち」

          内田樹(文春文庫)

同書P255〜258より、、、、

   複式夢幻能

 複式夢幻能という演劇形式が精神分析のセッションと同型的な構造をもっているということはよく指摘される。前シテが分析主体(患者)で、ワキが分析家(医師)である。
 ある「痕跡」をワキが見とがめて、そこに立ち止まる。そして、「ここでいったい何が起きたのだろう?」という問を発する。
 その問いに呼応するように「影の薄い人間」(前シテ)が登場して、歌枕の来歴について説明し始める。
 説明が続いているうちに、しだいに前シテは高揚してきて、やがて「ほんとうのことを言おうか?」というキーワードをワキに投げかける。
 ワキがそれに応じると同時に舞台は一転して、「トラウマ的経験」が夢幻的に再演される。後ジテが「死者」としてそのトラウマ的経験を語り、それをワキが黙って聴取することによってシテは「成仏」する(しない場合もある)。
 「成仏」というのは要するに「症状の緩解」ということである。
 能のこの構成はおそらく喪の儀礼的古代的形態を正しく伝えている。





 そこには二人の登場人物が出てくる。
「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。
 この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。
 時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」といいうことである。
 手続きだけが重要なのだ。
 それが「儀礼」ということである。
 能の前シテが「影の薄い人物」であるということも重要である。それはただの通りすがりの「誰でもいい人」(Mister Nobody)である。あるいは、そんな人物はそこに通りがかりさえしなかったのかも知れない。
 というのはほとんどの場合、ワキは長旅で疲れ果てて、人里離れたところで呆然と立ちつくしているところから物語は始まるからだ。






 これは「入眠幻覚」にとって絶好の条件である。
 前シテも、後シテも、ワキが出会ったと思っている人はもしかするとはじめから最後までそこにはいなかったかも知れない。もしかすると、ワキは疲れ果てて短い夢をみていただけなのかも知れない。
 重要なのは、「それでよい」ということである。むしろ、「そうでなければならない」ということである。
 それが死者とのコミュケーションの正統的なかたちなのだ。
 死者が私たち生者に告げようとしているメッセージなるものも、彼らが語る驚くべき物語も、おそらくは生者が無意識的に構築したものなのである。






 ラカンがただしく述べたように、分析においてもっとも活発に活動しているのは分析家の欲望だからである。私たちは「自分の欲望」をつねに「死者からのメッセージ」というかたちで読む。
 自分の欲望を「私はこんなことをしたいです」とストレートの文型で表白しても、そんなものには何のリアリティもありはしない。
 そんなものは小学校の卒業文集の「将来なりたい人間」に書いた文章と同じように、私たちが自分自身についてどれほど貧しい想像力しか行使できないのかを教えてくれるだけである。
 私自身の貧しい限界を超えるような仕方で「私の欲望」を解発するためには、どうあってもそれは「他者からのメッセージ」として聴き取られねばならない。
 そして、あらゆる他者のうちでもっとも遂行性の強いメッセージは死者から送られてくる。「死者からのメッセージ」はその定義上「書き換え不能」だからである。そして、「死者からのメッセージ」として読まれたときに「私の欲望」はその盤石の基礎づけを得ることになる。ラカンはこう書いていた。





 「言語活動において、私たちのメッセージは「他者」から私たちのもとに到来する。それも、逆転したしかたで」
 私たち自身の欲望の表明を、私たちは「他者」からの「謎の言葉」として聴き出す。
 それが「喪の儀礼」の本質構造だと私は思う。それは私たちが「自分の言葉」をもってしては決して語ることのできない「私の欲望」を言語化する唯一のチャンスなのである。
 喪の儀礼とは「死者は私たちに何を伝えたかったのだろう?」という問いを繰り返すことである。そして、この問いが、「私の欲望」を解錠し、私が私の限界を越えて生きることを可能にする決定的な鍵なのである。
 「ひとりでは 生きられないのも 芸のうち」内田樹(文春文庫)より


 以上長々と同書より引用したが、

これによって私がすべきことは延々と大和を作り続けるという作業にそれを見出すことになるでしょう。

しかし、「成就」しないこともあるというのはまいりまする。


















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