悲しきプラモデル2

ネコとウソ

2011年04月09日 22:31


 1/25 ポルシェ911  31年前に筆塗りで仕上げた、、、。




     やがて悲しきプラモデル 2


 近頃本屋へ行くとプラモデルの作り方やら、

飛行機や船、車等といったカテゴリー別にまでテキストがあり、

極めはプロフニッシャーとフツーの人との作品比較で、

そのリアリティは究極に達しているか。

この場合の究極とはもちろんフニッシャーの

作品の素晴らしさではなく

(だってフニッシャーはプロだから

          上等に出来てあたりまえである。)

フツーの人のリアリティが、である。



 チョツトはみ出したところをリカバリーすれば、

紙面ではテクスチャーまではそれほどでないから、

十分観れるのにそのままだから、小汚く見える。

それだけリタッチすれば、後はプラモデルだから

十分観賞(鑑賞では無くとも、、、)に耐えるのである。

リタッチしないのであれば、

かえって形も自分で作ったヘロヘロの方が、

その塗りの技術とマッチして

それはそれは素朴ながらも味わいのあるモノになるであろう。

子供の作ったオリジナルがその良い例である。

 実は私もその「フツーと上手」の雑誌を考えた事があり、

ついに出たかと思ったものの、実際に観れば前述のように、

なにかしら、わざわざ見せる事もないものを紙面いっぱいに

掲載する事もないか、と思った、、、。

リタッチくらいはしたって、あるいは

教えたってイイじゃないのよぉ~と思うのである。

 私が今でも考えているのは

「フツーにあるいはカタログレベルに作れる人達の、

      色から何から指定通り作った作品に

              どのような違いが現れるか」

というものである。

 実際にやってみた事があるのだが、

皆、非協力的であるというか、

つい作っていると僅かながらも手が入ってしまったり、

どうせならこのタイプ等とお約束と違うモノになり、

比較検討できないのである。

 プラモデルは個性がないから作品などと呼べるものではないし、

ぽんぽん出来上がるものだから、創造性もないという事に、

関心の無い人達には今でも思われていて、新聞の趣味紹介でも、

「大人も楽しめるプラモデル!」等というタイトルが並ぶ、、、。

おめー作ってみーと記者に言いたくなるが、

いや、言ってみるのだが、意に介さないのである。

だってプラモデルだもん、

わたしも小学生の頃よく作ってましたよ~と返されるだけである。

 そんなプラモデルであるが、

しっかりきれいに、さらには

創造性まで感じさせる作品としてのプラモデル、

つまり「模型作品」を要求されている感じだ。

 えっ、プラモデルって模型じゃないの?と思われた方には、

そうなんだけれど、そうでもないと答えておきたい。

私はプラモデルは奇妙なものだと思っている。

もう、かれこれ40年程作り、

時にプロフニッシャーもやってはいるが、

わたしは今も「プラモデルはプラモデル」と思っている、

 プラモデルキット(?)は素材で、それをどう作るかが、、、

といわれて久しいが、確かにそのような作例を見れば、

その通りで、キットとは別物になっていたりして、

実に模型になっていて素晴らしく、嘆息させられるものである。

だから、そんな事とは知らずに買ってきたキットの箱を開けて

ビックリするひとも、おおいにいらっしゃることでしょう。

 しかし落胆することは無いのです。

プラモデルはプラモデルとしても在るのです。

そのまま指定どおりに作って、おおいに手慰みとなり、

時に彼女のヒンシュクをかいながらも「結構楽しいものだよ」と言い、

コイツと一緒になったら作らせてもらえないなと考え、別れた方が良い、

などとはいえないかもしれないが、

私の場合、パートナーも同じような事をしているから

イーブンパーなのだ!ふふふっ、、、ってはダメですか。

 モノ作りは楽しいものです。なにかしら削っていると、脳が刺激されて愉

快になるし(ホントかしら、、、)ホラみてみてなんて言えば、きゃ~カワ

イと46センチ砲に感激してもらえるかもしれません、って違う話じゃない

のかいと訝られてもいたしかたないが、ともかくもプラモデルは何ものにも

なれなくてプラモデルでしかないのかもしれませんが、手を動かした分だけ

リアリティがあるような気がします。そのリアリティが思考させ、妄想を呼

び(ありありアブナイ・・・)充血、ではなく充実感を発し、フィクション

という現実を思考させる装置として働くのです!

すみません、ユクシかもしれん、手が勝手にキーをたたきました。

 何でしたっけ、、、そうそう、ですから、

プラモデルを作りたいのならプラモデルを、

模型を作りたいなら模型を作ると考えて

そのキットに向かえば良いのです。

なに、そんな事を言うために此処までひっぱったのかい

と言われればそうかも知れませんが

案外ごっちゃになっているような気がします。

 さて問題はそのプラモデルの奇妙さです。

私が奇妙と思っているのであって、あなたが奇妙で無いのでしたら、

もちろん何も問題は無いと思います。

 何がといいますと、

人の作ったものを途中からお金を払って作りだすという事です。

(お金はイイのですが、、、)だから、

そういうのをキットというのでしょうがという方はよろしいのです。

そういや変だな、

何で作っているんだろうと私のように思われる方です。

それも指示通りに作って、

まぁ、色は指示通りにやっても指示があるだけで、

かたちは無いから上手くいかないのであるが、

遠目に観ればいいか。

でもバリ取りなんかしながらフッと我にかえりませんか、、、。

 ですから、それを手慰みというのではありませんか?

ああ、そうでした、何やら意味付けしようとして難儀しているだけで、

モダニストの悪い癖ではありませんか、どうなんでしょう。

 奇異に思われるとおもいますが、

プラモデルは完成したものを分解していく作業だと言う事です。

それは奇妙だ。

だってちゃんと作って完成させているのだから分解は変でしょう!

そう、変ですが、でも、

出来上がると分かって、

完成できると分かってて作っていくのですから、

つまり、答えは分かっているのですから、

創作的には分解して行く感じの方が

自然な思考のような気が私はするのです。

でなければAとB部品を接着してしまう勇気はおきません、、、、

と思うのです。

 ですから、プラモデルは最初から出来上がっているのです、

そう、出来上がっていたのです!

それを、出来上がっていないと勘違いして、

不出来な模型と思ったものだからイケナイ!

お気付きでしょうか、つまり

プラモデルの完成品を買ってもおかしくないのです!!

私は40年も嵌っているのでしょうか。

だって、組み立てているんですもの、、、、。



 
           この項 了



関連記事