悲しきプラモデル

ネコとウソ

2010年06月16日 22:18


 周りが写って嬉しい、ツートンが楽しい22年前の作。



       やがて悲しきプラモデル


 最近プラモデルの雑誌をめくっていると、

素晴らしい作例に感嘆するも果たしてこれだけの

作品に仕上げるのにどれだけの技術と月日が

費やされているのだろうと思うと目眩がしてくる、、、、

と言いながら、

それに加担してきた者としてはいささか矛盾するのだが、

ここへきてプラモデルをプラモデルではなくしてしまった

ドン詰まりがあるような気がしている。

 バリやパーティングラインを取り、

サフェーサーをかけて下地処理をし、発色を考えて白を塗って、

さらにオレンジで地塗り、

そののちお目当ての赤にたどり着くというのが

昨今のカーモデルのボディ塗装であるが、

さらにクリアーをかけ、

ペーパーで研ぎだした後コンパウンドで艶だしをして

鏡面化して悦にいるというものだ。

 仕事(画家)では知っていたが、

プラモデルにまで施そうとは思いもよらず、

ザッと固有色を塗って、

指示通りにディティールも筆でチョコチョコ塗れば出来上がりの

楽しいプラモデルが前記のようになり、

果てはワックスも掛けてショーケースに仕舞うに至った!

思えばモダニズムの到達点でもあった。

自分で作ったモノが触れない、

何故なら指紋が付いて汚れるからだ。

何処までも清潔で一点の曇りも無く眺めるのが

モダニズムの極みなのであった。




  トレノもあったなぁ、、、、。




戦車などはそうでもないでしょうと思うのは違う。

戦車であっても「汚し表現」をするのであって、

汚すのではないからだ。

そのアカデミックともいえる表現思考は

これもまたやがてジオラマという風景画に収斂されてしまう

絶対美(リアリズム)へと向かう、、、、。

 なんて退屈なものになってしまったんだろう。

退屈を紛らわすために手慰みな試みだったのだから

これで良いのかしら、なんて皮肉を言っても面白くないので、

真面目に考えたら、

真面目な表現としてのプラモデルにたどり着いたという訳か。

 肝心なところは(フォルムは)人に作ってもらって、

美味しいところをちょんちょんとやれば

オリジナルにたどり着けるという錯覚が

プラモデルの醍醐味でもあるのだが、

こうも精鋭化すると気味が悪いという感じもする。

だから筆で塗ろうよといっても、

それはさらなる技術センスが必要になって来る訳で、

それはいつか来た道で、

だからこそスプレーやらが出て来たのではなかったか、

いやいや、

そこを個性的に塗っていけば楽しいプラモの復活ではないかと!?

ところがどっこいプラモデルの技術革新は

その素晴らしい型技術によって、

個性的に塗ろうものなら単にヘタクソさが目立つだけで、

3000円もしたキットを土鬼に変えてしまいかねないのだ。

確かに、その昔のプラモデルキットは、

バリの塊から削りだしてパーツを誘い出すという楽しみもあって、

いや、

その削るという行為が、土塊を表現物として現出するという表現が

人を満足させたものである。

しかし今やもっと高いクオリティのもとに

表現そのものを開拓しないと感性に到らないというところに

来てしまっているのだ。

思う以上にこれは大変である。

昔だって、ウッッとなってこれは出来ないと

そのまま仕舞うという事があったが、

いまやウッとなることのコンセプチャルにも

表現と言う枠がはめられる訳で、

どこまでもあなたを追い詰める、、、、。

 そっ、それではあまりに荷が重いので、

大方の人は評論家に回るしかなく、

そして、

なんでプラモデル如きを評論と言う

難儀な世界にしなければならないかということになる。

地球温暖化の中プラモデルはますます右肩上がりの技術成長を求める。

そう、プラモデルはもう出来上がってしまったのだ。

 ということでテレビの上にも飾れなくなってしまった

   (だってTVが薄くて載せられない、、、)

プラモデルなんてやめてしまうしかないのでしょうか。


         この稿たぶん、


           つづく




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