CATERHAM SUPER SEVEN

ネコとウソ

2008年12月30日 22:04


   このエアファンネルが見えるかっ!

 
 CATERHAM SUPER SEVEN

         BDR

     1/12  TAMIYA


 このキットが出た時の驚愕と感慨は忘れられない。

「マルチマテリアルキット」

これで成功した例はあまりないと思う。

しかし田宮は違った。

その車種を選択した時点で、

そして田宮の蓄積した技術を思えば、

成功は約束されていたと思う。

 「実車の組み立てさながらに、、、」

という謳い文句は数あれど、

これほどまでに上手くいった例はないのではと思う。

なにしろ、




   アルミスキンのボディ!


ボディが実車と同じアルミなのである!

それは単に同じというだけでなく、

その作りも一緒であるのだから

もうなんと言ってよいやらの興奮である。

それだけでもすばらしく、

このボディパネルだけでも良いと思われるほどのキットだ。

 そしてサスペンションアーム。

これが金属でシャープ、かつ可動するのだ。

舵も切れれば、

リアサスペンションのドデオンチューブも

ラジアスロッドと連動して上下するのだ。

好き物にはたまらない仕掛けだ、

というより実車と同じ動きが見られるのである。

して、1/12に出来た付属のレンチで

ホイルが脱着出来るといったらあなたはどうしますか!



     シフトレバー付きミッション。

 ディテール、勿論抜かりはない。

アルミ製のエアファンネル!

エンジンはギアレバーがちゃんとミッションに付き、

ドライブシャフトへと至り、後輪駆動がリアルにわかる。

あまりの素晴らしさに言葉も出ないほどだ。

 すばらしい、あまりにすばらしいので作れない、

いや技術の問題ではない、

実はこれほどのキットでありながら、

組み立てはとても簡単スムーズなのだ。

作れないのではなくて組み立てるのが惜しいのである。

もうパーツ群を眺めるだけでイッてしまうのだ、、、、。

あの平野氏でさえ躊躇しているのだそうだ。

フフッ、私は組んでしまいました。

禁断の実をほおばるように食っちまいました、

はっはっはぁ~。

 なので、しばらく放心し、

妻に「大丈夫ですかと、、」と声をかけられた程だ。

刺激が強すぎたのだ、、、、。

 といいながら、全部は組んでないのであった!

意気地なしィ~と言われようがなんだろうが、

今日までプラモデル、模型を趣味にしてきた者にあって、

しかし平野氏は話すように、

これだけのキットにしてはリーズナブルな価格とはいえ、

そのすばらしさと、

電池が買えなかった抒情が手を止めるのである。

そうTAMIYAひとりで無く、

我々の世代の金字塔でもあるのだった、

と言いたい!。



 ここまで言っときながら

クチサガが無いのか、

何なのかアレですが、、、。

もし、シャーシーが金属なら(ブラスのパイプ)、

排気管がムクでなければ、

ああッ許してください!

言ってしまいました。

それで価格が倍に跳ね上がっても

「よろしかったでしょうか」

といわれていいんでしょうか!、、、、

すみませんでした。

そこはそれ自分で作りなさいよ

という事でしょう、ハイ。



 でも、寂しいというか、

違うという思いも有るのであった。




   1/24でもほれこの通り! TAMIYA 1/24

 つまり、これって

「プラモデルじゃないジャン」である。

やはり、「プラモデル」は

プラスティックで出来ていてプラモデル、

マルチマテリアルは聞こえはいいけど、

ひとつの「断念」である事もまた疑い無い、、、、。

そんな事言ったらセブンのフロントサスが出来ないジャン、

出来ない、

でもたとえ華奢ですぐに折れようとも

プラスティックでなければならないのだ。

それがプラモデルというものなのだ!

とわれわれは知っている、、、という事にしたい。


   ディティールも問題なし。    TAMIYA 1/24

危弱ささえもがプラモデルの良さであり、

そのモノマテリアルこそがプラモデルなのだ。

そのことによってヒェラルキーを凌駕し、

化ける可塑性が、

我々20世紀人の平等を

打ち立てたとさえいえるものなのだ。

同じ物が同じように皆に行き渡り、同じ幸せを享受する、

これぞプラモデルの使命なのであった、

と言い切ろう。

金でも銀でもないプラスティックだからこその

革命なのであった。



  そう、プラモデルは、これ程にスゴイ事なのだった。



          あら、過去形?



 これほどまでに我々の価値観に革命を与えたのであるが、

資本主義経済は、もうひとつの抽象性をもって

夢を挫いてくれた、、、。

言うまでもなく資本だ。

おかげで我々は未だに平等でも無く、

幸せを同じようには享受していない。

果たして「プラモデル」は

20世紀の蜃気楼なのであったのか。

山と積まれているこの部屋の情景は、

単にプラスティックというゴミの

山でしかないのだろうか、、、。



   プラモデルは美術工芸品でも無く



 プラモデルをアートの中に収斂させてもいけない。



         と思う。



  何故なら、プラモデルは思想なのだから!


        うわッ、、、。


     どうだ!チュウジ(感電)たかッ!




 

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